ニュージーンズと文学理論
音楽と文学の受容の違い、特に日本での。 #NewJeans #뉴진스 #théorie_littéraire #NWJNS
年明けにポッドキャストで2000年頃のKpopの話をした際に(Ep.6「Kpop 昔ばなし」)当時のミュージック・ヴィデオを検索していて、うっかりニュージーンズを聴いてしまい(笑)以来、ほぼ20年ぶりに、Kpopを聴いている(といってもニュージーンズだけだけど;)。
インスタグラムのリールでもとにかくニュージーンズ関係が出てくると規則的にライクしていたら、ニュージーンズか猫かアメリカのTVと映画、R&B、ジャズ、というタイムラインになってしまい、永遠に見てられるので、ますます目が悪くなった気がする(笑)
ファンがコメントを付けて送っている非公式のものが大多数で、コメントが英語だとつい読んでしまうが、さすがにこれだけの大人気になると(米ビルボードのアルバムチャートでも1位を獲得)ファンもさまざまだし、リテラシーもさまざま。
スタジオでなく、みんなで勝手に歌っているヴィデオに、「このハーモニーが、ワーオ」みたいに書いている人がいて、それが普通にユニゾンなので、さすがにそれはブロックしたが(笑)
それで、ふと思ったのは、音楽と文学の受容の違い、特に日本での、という点で、
何かというと、ハモってないのにハーモニーがどう、とかいえば、それはおかしい、という白黒はすぐに付く。
音楽は、リズムとか和音とかピッチとか、簡単に正しい・間違っている、ということがいえる。
(もちろん間違っているからダメ、とはならない場合もあるのは事実だが、それはもうひとつ、先の話だろう)
ところが文学の場合、こういう基礎的な理解が完全に(特に日本では)ないがしろにされている。
その点は、スポーツのほうがはるかにマシで、TVでスポーツを見ていると、経験者や関係者が、解説者として、えんえんと、そのスポーツをやっている人以外には判らないし、マニアックなファンでもなければ本来興味もないはずの特殊な知識をひたすら開陳し続けている。
…それは、最近のTVなら、ウクライナ戦争の軍事評論家や戦争研究家の話を聞いていると、よく判る:そんな戦術や、兵器の知識や、戦況の分析なんか、延々聞かされてもなぁ、こっちは素人なんだしなぁ。。
というオタクな話に終始している。
スポーツだと、競技を見ているつもりでも、それ(解説)がBGMのように、知らずしらずのうちにインプットされていく。
いまの子どもたちはさすがにもう違うだろうが、昭和時代に子どもだった当時の男の子たちならだれでも、野球の話で「外角低めの変化球で泳がせてから、インコースのファストボールで詰まらせる」などという配球の話なんか、ふつうに理解できる。
「2球続けて同じアウトコースで、2球目があそこに甘く入ったら、そりゃあ打たれるよ」…なんてことは、野球にぜんぜん興味がなくてもいえてしまう(笑)
その点、文学はどうか。
例えば、「人称がこうなっていて、視点がこう移動して、で、ここで意識の主体のマークが消えてて、そこにパッとシフターが出てくるから、グッと来ちゃうんだよね…」
などという話に、一体だれが付いていけるだろうか。
しかし、音楽であれば、「そこのハーモニーのピッチがいいから、そこのリズムにシャッフルがかかってるから、やっぱり聴いてて、グッと来るわけですよ」(笑)
野球でいえば「そのスライダーが甘く入ったからこそ、打たれるわけですよ」(笑)
…音楽や野球なら、ふつうにできるこのレヴェルの話が、文学では、できない。
ただ、自分の好き嫌いに、でたらめなことばを盛って「表現」している。
それが文学の批評とか「レヴュー」だと思っている。
ハーモニーがないところに、「ハーモニーがいいんだよね。。最高!」
みたいなレヴューは、文学、小説だったらもう、ふつうに、ゾロゾロある、といっていいだろう。
どうしてそんなことが許されるのか。
文学が、音楽や野球より、単純で感性的で非論理的なわけがない。
理論と同じ「言語」というメディアで出来ている分、音楽(音)スポーツ(肉体の運動)よりはるかに容易に、複雑な部分まで、例えば、その「感動」(=効果や影響)の根拠はより精密に、客観的に(言語で)捉えることができるはずだ。
文学の理論的な理解が、日本でここまでたち遅れているのは、ひとつには日本がそもそも文学に敬意を持ち、文学を大切にしてきたから、かもしれない。
つまり、文学とは「心」の問題であり、「心」を理論のレヴェルで分析することは、冒瀆であり、少なくとも矮小化に過ぎない、という「論理」なのかもしれない。
しかし、文学が、その豊かさを汲み尽くされることなく、ここまで過小評価されている現状を見れば、文学に対するその敬意は、むしろ仇(アダ)となっているのではないだろうか。
文学理論を使った文学テキストの理論分析は、やはり必要だろう。少なくとも、昭和の男の子たちが野球を語り(…第二次大戦戦後の、ということだが。昭和は長かった;)
ロックやジャズを聴いているリスナーが、音楽を理解できる程度のリテラシー、基礎知識は、やはり必要なのではないか。
その知識、つまり理論的な知識があれば、文学は、いまより何倍も面白くなるはずだ。
…ここでは1コーラス目でダニエルが上のメロディーをとろうとし、あと、最後の白玉もハモろうとしてるけど、ニュージーンズは、音楽は(たとえばダンスの力量と比べると)まだまだ。
ただし、ソロで歌う時のアーティキュレーションは、各自、ものすごい。ひとつには、全員が韓国語話者で、いわゆる濃音が出せるから、自由に喉が閉められる。それ巧く使って、例えばアタックのところで、クッと喉を閉め、息の出方をコントロールしてくるので、もう、ものすごく魅力的に(男の子が聴くと、多分たまらない感じに・笑)発音できるのだ、というポイントから分析できる。…まぁ、この話は、いつかまた、さらに詳しく、機会があれば;)
もうひとつ、個人的には、東京コロナ下オリンピック以降、スペクテーター・スポーツをボイコットしている。それは、あの状況で、選手の中から、開催強行に反対する声が一切聞こえてこなかったから。多様性というものが、まったく見えてこなかった。運動部というのは、個人を認めず集団主義、全体主義で、みんな右翼的、頭が筋肉でできている…などというような紋切り型、固定観念を(その他のあらゆる固定観念一般:〇〇とは✕✕なものである式の、全てとともに)システマティックに否定する、そういうクリシェと闘うことを自分の基本として、これまで生きてきていたが、あのコロナ下でのオリンピック以来、もしかしたら(いま現在の日本の)スポーツ選手というのは、クリシェの通りにとってもいいものなのかもしれない…と考え始めた。
問題は何かというと、そこには(複数形も含めた)一人称しかない、ということだ。それは「我欲」しかない、「我欲」の塊である、ということを意味する。つまり、家族、関係者、チーム・メイト、スポンサー、ファンを含めた、一人称複数形「われわれ」の利益しか考えていない、ということだ。
そこには「あなた」と呼ぶ二人称、つまり「私(たち)」とは異なる、他の一人称が存在する余地はあるとしても、
「私」に向かって「あなた」と話しかけてくることの決してない、真の三人称=真の他者は、存在することがない。
(要はバンヴェニストのいう意味での「人称」性は存在するが「非人称」は存在しない、ということ)
だからこそ、「みんなに感動を届けたい」などと、感動を生むことが仕事の一部でもある本業の芸術家さえいえないような大それたことを、
「あたらしい歴史を作ってみせる」などと、どんな偉大な知識人、言論人もいえないような傲慢なことを、軽々と(軽々に)いってのける。
Quick fix、そこに付ける、即効性のあるクスリはないけれど、少なくとも、僕はその、感動を与えられる「みんな」には入らない。その観客、ファンも含めた「われわれ」=一人称複数には入らない、と決意した、という次第(笑)
…こんな話も、もし文学理論が判っていれば、ごくごく簡単に理解できる、と思います。
学校でも、これは教えといたほうがいいと思うぞ(笑)
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