『「細雪」の詩学』と『細雪』(まとめ) – 前+後編 (完結) –

Yûichi Hiranaka
20 min readJul 20, 2024

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[後編は、分けずに後半に追加しました!]
理論研究としては従来のナラトロジーを更新するノン・コミュニケーション理論を導入した『「細雪」の詩学』(田畑書店 2024)。当然その理論面が注目されますが、分析対象・コーパスとなっている谷崎潤一郎『細雪』のむしろモノグラフィー(専門研究)として見ると、どうなのか。その観点から、この大部な理論書の内容をまとめておきます。

谷崎潤一郎「細雪」のモノグラフィーとして見る
「細雪」の詩学』田畑書店, 2024(装画:安西水丸)

4月に出版された『「細雪」の詩学』は、かつてパリ大の博士課程で書こうとしてまとまらなかった論文を、東京大学大学院の先生方のご指導を受け日本語で博士論文としてまとめ、同大学院に提出したものです。

中心となるのは小説テクストの分析理論で、副題にある通り、ナラトロジー、ノン・コミュニケーション理論、そして日本発の物語理論の3つから、より大きな理論を聴き取って(割り出し=標定して)、新しい分析方法を確立することを目指しました。

その分析の対象(コーパス)としたテクストが、谷崎潤一郎の『細雪』。
これは、ちょうどナラトロジーを確立した、ジュネットの『物語のディスクール』(1972)にとってのプルースト『失われた時を求めて』と同じような関係です。

ジュネットの『物語のディスクール』はいまだにフランスの高校・大学では必須の課題となっている、物語の〈語り〉の構造を説明するための理論書ですが、同時にプルーストの大長編小説『失われた時を求めて』を読み解くという意味で、プルースト愛読者にとっても面白い、必読の本といえるでしょう。

そこで、今回は『「細雪」の詩学』から、理論的な話題をちょっと横において、谷崎潤一郎の『細雪』のレクチュール(読書)を中心に見ると、一体どんなことが書かれているか、そこを少しまとめておこうと思います。

『「細雪」の詩学』の帯には、まず

“谷崎最大の長編「細雪」。しかしその評価は未だ定まってはいない”

ときっぱり言い切られていますが、これはあながち「誇張」でもないんですね(笑)

谷崎は20世紀日本文学を代表する、世界的な小説家です。その最大の作品が『細雪』(『源氏物語』の現代語訳は、“翻訳”なので別として)。

当然谷崎の主著、代表作と考えられるはずですが、発表当時からその評価は大きく分かれ、毀誉褒貶、入り交じる作品です。

(発表当時、褒めた人で有名なのは折口信夫や永井荷風、貶した人では有名なのが山本健吉「『細雪』の褒貶」1950年など。
なお、このポストでの引用の出典や詳細は基本的には『「細雪」の詩学』の中にあるためくり返しません。『「細雪」の詩学』で見て下さい)

しかも谷崎研究は豊富でも、作品『細雪』テクスト自体の分析は、まとまった専門研究=モノグラフィーでは、大規模なものはあまりありません。「世界の谷崎」の主著なのに

(“文学の国”フランスで、フランス語で言っても既に自然な形容詞になっている日本の作家といえば、まず、谷崎と三島でしょう:それぞれ、タニザキエンヌ=タニザキ的、ミシマエンヌ=ミシマ的、といいます・笑)

これは一体どうしたことか…と考えると、密かに思うに、従来の日本文学の評論の評価軸では、この作品『細雪』はなかなかうまく捉えられない、というところがひとつにはあるのではないでしょうか。

(そういえば、この点は毎日新聞のインタヴュー後半で『「細雪」の詩学』について話したところでも拾ってもらっていました。…ぜんぜん「密か」ではないですね・笑)

ジュネットのナラトロジーでは、ひとつの小説をまず、物語作品、物語内容、物語叙述に大きく分けて捉えますが、このうち「物語内容」、つまり、何が書かれているか、あらすじで説明できる部分からいうと『細雪』は:

“三女の縁談がなかなかまとまらないところへ、末妹の四女が問題を起こしたり、台風、洪水といった災害、さまざまな病気が家族を襲い、妹二人を預かる次女の幸子とその夫・貞之助が、対処に苦慮する

…という、なんとも日常的な内容です。崇高なところや、詩的なところはほとんどない(ないわけではないですが)いわば、ほんとにプロザイックな、散文的なエピソードばかりです。

つまり、この作品の偉大さ、というか、達成は、物語の内容から論じたのではなかなか捉えにくいわけです。

…そんなことはない、貞之助や幸子の対応には、まさに実人生における汲めども尽きぬ教訓が溢れているではないか、と反論している人もいます(浅見淵)。
確かにそれはそうなのですが、日本の読者が「20世紀日本を代表する世界的作家・谷崎の代表作」に期待するのは、そういう日常的な、「処世術」的なものではない、というところが問題です(笑)

結局『細雪』の偉大さ、達成は、書いてある内容などではなくて、その書かれ方、その内容が「いかに」書かれているか、つまり小説テクストとしての物語叙述(=ナラション)がどうなっているか、からしか捉えられないのではないでしょうか。
…と、これもまた毎日新聞インタヴュー後半に書かれていました。短いけれど、要点をきれいに押さえた見事なインタヴューでした(で、次に書くことも既に毎日で拾われているので、またまた繰り返しになりますが。。)

確かに内容から見れば、日常的な、散文的なことばかりのような『細雪』。しかしたとえば、この作品には独特の時間性、時間感覚がある。

少なからぬ高名な論者たちからも、この印象は指摘されています。

時間性を感じさせる文学作品は他にもいろいろありますが、『細雪』の時間性は、その中でもまれなタイプといえるのではないでしょうか。
それはドナルド・キーンが書いているように、まさに、この作品を読んだ人は、作中の蒔岡家の人々と共に4年半を過ごしたような気持ちになる。
(キーンのコメントも、詳しくは英語原文を含め『「細雪」の詩学』の中にあります)
僕なんか特に使用されている関西弁と相まって、だんだん三女雪子の話が、遠縁の従姉妹のお姉さんの話か何かのような気がしてくる…。「雪子姉ちゃん、あの話、またあかんくなってんて」「ふーん、そうか。。綺麗ひとやねんけどなぁ」みたいな感じで(笑)

いわば、もうひとつの人生というか、自分の人生のオルタナティヴな一部、エピソードのような感覚・錯覚が、だんだんと生まれてくる。

もちろんリアリティ、現実感を読者に与える、というのは大多数のフィクション小説の目指すところ。だが『細雪』が生み出すこの時間感覚、
“もうひとつの人生”の時間をそこで過ごしたような感触は、決して多くの作品から得ることのできるものではない…。

中村真一郎はこの点について、『細雪』は実際の生活の中で私たちが人や世界を見るときと同じ視点に読者をおく、とその源(フランス語でいえば« foyer »かな…) を説明している。
キーンも中村も、どちらも実に的確に論評している、非常に正しいことをいっている、という気がする。

このように、『細雪』には大規模な、大きなモノグラフィー(専門研究)は目立たないものの、断片的にはいろいろ鋭い指摘はあって、たとえば時間性については同じく中村真一郎や佐伯彰一、さらに断続的に書かれた野口武彦の「ありき」シリーズなどなど、非常にレヴェルの高い評言は綺羅星のごとくある…。
(このあたりもすべて、詳細や出典は同じく『「細雪」の詩学』にて)

あるんだけど、しかし、ここで、そもそも僕が自分でも小説を書く人だ、という問題、ファクトがキックインされるわけです(笑)

最近のパトロジックな(笑)MLB加熱報道で、僕が子どもの頃の男の子たちの必須知識だった野球解説用語が再び復活しているのでは…という気もするので、それを例にとると、たとえば:

「 芯に当たってるから、あそこまで飛ぶんですねー」

とか

「引っ掛けてもあそこに持っていけるならヒットになるわけです」

とかね(笑)

そういう解説を聞くと、ふつうのファンならそれで「なるほど、なるほど」と納得して楽しめるかもしれません。でも、自分でも野球をやろうと思ってる人は、どうでしょう。自分でもそういうふうにボールを打ちたい、と思っている人は…?

どうやったらその「芯に当てられる」のか。あるいは、どうやったら「あそこに持っていける」のか。それが知りたいと思うんじゃないでしょうか。

つまり、キーンのいってることも、中村のいってることも確かに正しい、でも、一体、どうやったらそう書けるのか。谷崎が具体的に、どうやってそれを書いているのか。それを僕は知りたかった。
でも、評論はそこを書いてくれないんですね。
それはつまり、「どうやってそれを書いたのか」に興味の中心がないからだろう、と思うのですが…。

評論者は、むしろ「なぜ」その作品を作家が書いたのか、に主な興味があって、
一方僕は本来小説を書く人なので、その「なぜ」にはほとんど興味がありませんでした。

というのも、なんで書いたかには、それはいろいろ理由があるでしょう。でも、その理由のためにいい作品が書けたわけではない。
どんなにいい着想があっても、途中で駄目になっては意味がない…。

つまり、なぜ駄目にならなかったか。
つまり、どういうふうに書いたからそう書けたのか、のほうが、はるかに僕には興味深いわけです。

今回の論文では、新しい分析理論の導入だけでなく、その分析理論を実際に使い、『細雪』について具体的に、そのあたりもしっかり説明しておきました。

「なぜ」ではなく「どのように」『細雪』は書かれているか

それを客観的に分析するのがナラション(叙述)理論なわけですが、だからこそ(…少なくとも、それもあって)こんな大部な論文になってしまった、というわけです。

僕がもともと小説を書く人だということがこの論文『「細雪」の詩学』の分析に影響したのは、この「どのように」ということに対する強い関心だけではありません。

次回はさらにもう一例、評論家だったら普通は絶対やらないだろうと思われる、この論文で僕がやってみたことを紹介します。

- 後編 -

お待たせしました、続きもアップ完了!
後編では
- 昭和の“伝説の”編集者たちの何がすごかったか
-『源氏物語』と『細雪』のテクスト構造の相同性
- バンフィールド理論を踏まえ、理論=視点とし「理論は主観性を共有するための装置である」という新しい理論観を提示します:
https://link.medium.com/Ln7HmJDrvLb

博士論文として書いた『「細雪」の詩学』に、そもそも僕が小説家だからこそ出てきたのではないか、と思われる特徴を、さらにもうひとつ認めておくと(笑)

この学位論文の論証の中には、谷崎の文章を、なんと僕が例文として、自由に書き換えて見せている、という箇所が注意して読んでいただくと何度か出てくるはずです。

つまり、もし谷崎がそう書きたいのなら、このように書いたはず:「平中例文」;しかし谷崎はこう書いている:「谷崎原文」。したがって、谷崎は、そう書きたかったのではなく、こう書きたかったのだ、という論じ方です。

これは畏れ多くも大文豪の名文を、もしそう書きたいならこう書いていただろう…と仮にも書き直してしまうわけですから、ふつうの評論家の心臓ではできません(笑)

ではなぜこれを僕ができるのか、というと、それは僕が昭和時代の、今となっては“伝説の”、と呼んでいいような編集者をぎりぎり見てきているからです。

いまの文芸の編集者と当時の文芸の編集者(文芸誌の編集者の意)の何が一番違うか、というと、昭和のできる編集者は、作家の書いてきた文章を直すことができた。

なぜ直すことができたか、といえば、それは、作家が書きたかったことを「本当はこう書きたかったんだろう」ということができた。
「それだったら、こう書いたほうがいいだろう」という直し方なわけです。

ここでいちばん大事なのは「本当はこう書きたかったはず」と作家の意図をまず言い当てる力、です。
これがなければ、編集者は作家の文章を直すことなどできません。なぜなら、まず、作家が本当に「何を書きたかったか」が判らなかったら作家にとって真に有益なアドヴァイスなどできませんし、作家自身が書きたかったことと違うように直しても、そんな直しを作家が認めるはずもないですから(笑)

この「そう書きたいんならこう書けばいい」という直し方ができたのが、昭和の優秀な編集者たちです。
僕が最初の本を出版したのは昭和が終わるほぼ4年前で、期間としては短かったし、そういう編集者自体現場にはあまり残っていませんでしたので、それほど機会は多くありませんが、それでも、やはりこういうやり方で、若い時に編集者に「バカヤロー」と僕は頭を叩かれてきています(笑)

つまり、経験的に、僕はそれをやられている、まぁ、痛い目にも遭っているわけで(笑)見様見真似で、だいたい同じことができるわけです。

このかつての文芸の編集者の小説の直し方を文学テクストの分析に援用するという考え方については、機会があればもう少し詳しく論じておいてもいいかなと思っています。
(原稿振って下さい。そんな恐い人じゃないので大丈夫です・笑)

『「細雪」の詩学』では、他にも分析理論自体ではなく、『細雪』作品本体に関する問題をいろいろ書いていますが、さらにまたひとつ理論研究に興味はないが谷崎文学と『細雪』自体には大いに興味がある、という人に関心を持ってもらえそうな部分として、谷崎源氏と『細雪』の(テーマ論ではない)影響関係についての論述があります。

谷崎の『源氏物語』現代語訳は、『細雪』執筆と時期も相前後し、その関連性はさまざまに言及されていますが、その大部分は、花鳥風月といった美意識や、年中行事、病気、短歌の挿入、さらには「もののあはれ」というような主題など、要するに文学部でいうところの「テーマ論」の範疇で、たしかにそういう種々のアイテムやトピックを谷崎が『源氏』から取り入れ関連づけている、ということはいえるでしょうし、大いにありそうな話でもあります。

しかしそういう表面にあらわれる意匠の問題ではなく、もっと内在的な、テクスト構造自体の関連性はないのでしょうか。

今回『「細雪」の詩学』では、試みに、ナラトロジー、ノン・コミュニケーション理論という仏米のナラティヴ理論とすり合わせるかたちで運用した日本の3理論、藤井理論黒田理論、中山理論のうちから、特に中山先生の『物語構造論』での『源氏』テクストの構造分析を参照し、
この中山理論を適用すれば、『細雪』には『源氏』とほぼ相同的なテクスト構造が見られる、ということを簡単に例示しておきました。

このあたりもまた、文学理論よりむしろ『細雪』自体に興味がある、という人にも十分関心を持ってもらえる部分ではないか、思っています。

谷崎が『源氏』との関連を、テーマ的に演出する。…たとえば「怨霊」や「生霊」を想起させる例などは『「細雪」の詩学』でももちろん註記しておきました。
作中で和歌を詠んでみたり、みやびな桜や蛍狩を描いたり。
しかしそれは、渡辺淳一の小説の章題が『源氏』を想起させる、ということと程度問題の重要性です(笑)

それに対し、テクスト構造自体に相同性があるとすれば、これは問題の次元が違う、といっていい。谷崎といえば、本質的に小説ナラション(語り)、叙述の人です。小説叙述こそが谷崎その人である、といってもいいくらいではないでしょうか。

その谷崎が、あれだけの時間を費やして一文一文、『源氏』テクストを現代語化しながら、ごくごく表面的な主題やトピックだけを取り入れ、テクストの本質的な構造自体からは何も吸収しなかった、などということは、むしろ到底考えられません…。

またさらに、
(…ここから先は一種の推論、あくまで想像になりますが)
『細雪』は谷崎最大のテクストであるだけでなく、最後の「三人称体」による長編小説でもあります。谷崎読者ならご存知の通り、その後の代表的な長編作品といえば、なんといっても『』、そして『瘋癲老人日記』という日記体を用いた二作です。

ではなぜ谷崎は『細雪』を最後に「三人称体」を放擲し、日記体に移行するのか。
もちろんここには確たる客観的な証拠はないので、博士論文である『「細雪」の詩学』の中ではあまり表立って論じることはできず、脚註などでの示唆にとどまってしまったかもしれませんが、この問題についても、おおよその考え方を示しています。

やや理論の説明になりますが…。
ノン・コミュニケーション理論では、英語やフランス語の特に三人称小説に非コミュニケーション的な部分を見出し、それをむしろ小説の本質、と考えます。

一方、日本語には非常にコミュニケーションのマークが多い。コミュニケーションのマークなしに日本語を話すことはもちろん、文章を書くこともほとんどできないほどです。

ところが、谷崎は『細雪』で、その日本語の特徴を生かしながら、一見「三人称体」に見えるかたちで(つまり英語やフランス語に翻訳すれば、自然な三人称になるかたちで)ノン・コミュニケーション理論が「小説の本質である」とするその非コミュニケーション性を実現している。『「細雪」の詩学』はそのことを最後に論証します。

もちろんそれは、ノン・コミュニケーション理論を通して見るからそう見えるだけで、谷崎自身はそんなこと毫も考えてはいなかったでしょう(笑)

非コミュニケーション性は、ノン・コミュニケーション理論から捉えた、小説の本質です。ナラトロジーから捉えれば、小説の本質はもちろん、コミュニケーションです。

つまり、「本質」は、どこから見るかでその「見え方」が変わってしまう、ということです。

(ノン・コミュニケーション理論を確立したアン・バンフィールドは、これを〈インストゥルメンタル・サブジェクティヴィティ〉という概念で説明していますが。。これもやはり『「細雪」の詩学』で読んで下さい)

やや禅問答のようになりますが(笑)「どこから見ても」正しい、客観的な真実は、「どこかから」見るしかない現実の人間にとっては、直接的には見ることができません。見えていたとしても、見えていると判りません。が、しかし、それは真実や本質が存在しない、ということではない。

オルタナティヴ・ファクト、という言い方は「嘘」を正当化するために使われているので、それとは違うのですが、たとえば、ガリレオが精度の低い望遠鏡で土星を見て、耳がある(取っ手がある)といったのも、決して嘘ではないし、間違いではない、ということです。(逆に、たとえばガリレオが地球が回っている、と理解しながら、地球は静止している、といえば、たとえ教会の権威や民心の安寧を守るためであろうと、それは「嘘」になりますが…。)

現代の望遠鏡で見れば、土星には輪がある、ということになりますが、仮に土星の輪の上に住んでいる人がいれば、それは輪には見えないでしょう。
どれも間違いではなく、「ひとつの事実」をいろいろに捉えている、見え方は違うけど、確かに「同じひとつのこと」を見ている。この例なら、「土星の輪」を観測している、といえると思います。

ノン・コミュニケーション理論から見れば、文学の本質は非コミュニケーション性です。『「細雪」の詩学』では、その本質を『細雪』は日本語の「三人称体」小説叙述として、独自のやり方で実現していることを論じました。

さて、谷崎はもちろんそんなことを考えていたはずはありません(笑)小説の本質は非コミュニケーション性だなどとは思っていないでしょうし、それが『細雪』では英語やフランス語の三人称とは異なるかたちで実現されている、などとももちろん思っていないでしょう。

しかし『「細雪」の詩学』がノン・コミュニケーション理論を使って標定した、ひとつの文学の本質 — — それを谷崎が何と呼ぶか、何だと考えていたか。。そもそも考えていたか自体、まったく判りません。
判りませんが、しかしその英仏語の三人称小説のその「ひとつの本質」が、『細雪』では日本語「三人称体」において実現できた、という「真実」自体は、恐らく「見えて」いたのではないでしょうか。

だからこそ谷崎は、そこで「三人称体」を終了し、これだったら「日記体」のほうがもっと面白いことができる、と思ったのかもしれません。

…もう、このあたりは、完全な想像に過ぎませんが(笑)

しかし、谷崎がここで大きく日記体にシフトするのは、『細雪』執筆における経験が踏まえられている、と考えるのは自然だし、ではその『細雪』での達成、到達点とは何だったのか…。それを谷崎がことばにはしなかったとしても、研究者にとっては十分考えてみる意義のあることだろうと思います。

『「細雪」の詩学』からは、その『細雪』の達成がなんだったか、その「解答」が見えてくるはずです。もちろんそれはひとつの理論に立脚した場合の、ひとつの解答例です。

しかし、客観的な(つまり、反証可能な)かたちで文学を捉えるには、何らかの理論、言い換えれば「この角度から見ると」こう見える、という「見方」を、まずはっきりと決める必要があります。その限定がなければ、人はみんな、それぞれの主観性から外に出ることはできません。

「僕はこう思うんだよ」「それは違うんじゃないかな」となって、話はそこで終わるか;
「僕はこう思うんだよ」「あ、そうそう!」となって二人で同じことをいい続けるか…。つまり、話はやっぱり、そこで終わり。
それでは、二人でひたすら同じことをいい続けるか、決裂するかの二択で、話もできない。
その「話」を可能にするのが、「理論」です。

それを「視点」と考えてもいいでしょう。
「ここから見ると、こう見えるんだよ」といわれて、「へえ、どれどれ」とその同じ場所に立つことができる。その場所、視点が「理論」であり、それは主観性を共有するための方法なんですね。
…と、これは後期バンフィールド理論にもとづく考え方です(笑)

バンフィールドの考え方を展開すれば、理論は、主観性を排除して客観的な正解を見出すためのもの、というよりむしろ、主観性を(理論的に)共有するための装置である、と考えることができるのです。

最後は少し、理論の方に入ってしまいました。
確かに『『細雪』の詩学』の中心は、小説テクストの客観的な(=反証可能な)分析方法、分析理論の確立と、それを用いた理論分析です。
その理論(視点)に立てば、誰でもそう見える、という理論を組み立てながら、そこから何が見えるかを論じようとするものでした。
でも量的には、それに負けないくらい、分析対象、コーパスとした『細雪』自体について、まだまだほかにもいろいろと具体的な読解が書かれています。

研究者や国語の先生、また小説を書く人も勿論ですが、谷崎の愛読者、『細雪』のファンが読んでもいろいろと楽しめる1冊になっている、1冊で何通りにも楽しめる、また違った角度・視点から、何度も読める本になっていると思いますので、ぜひ一度手にとって見て下さい。

↓こちらより↓

「細雪」の詩学』 田畑書店, 2024

装幀:安西水丸
https://amzn.to/3Sftg6S

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