というと、なんだか「風が吹くと桶屋が儲かる」式の話のようですが。。こう考えてみては、どうでしょう? …年の瀬に気になった、みっつのニュースより。

少し前のニュースだが、政府与党の税制改正大綱に関連し、

“日本の賃金について、「30年以上にわたり、ほぼ横ばいの状態にある一方で、企業の株主還元や内部留保は増加を続けている」と指摘。「企業がイノベーションよりも経費削減や値下げに競争力の源泉を求め続けた結果、経済全体としては縮小均衡が生じた」と経済界に苦言を呈しました。

という報道があった。

つまり、「イノベーション」、本質的な解決をめざすことなく、「経費削減」や「値下げ」ばかりやって結果を出してきたところ、「経済全体としては縮小均衡」した、つまり社会としては、貧しくなった。そう税制調査会が指摘している。

「イノベーションよりも経費削減や値下げに競争力の源泉を求め」る、というのを一言で簡潔にいうと、つまりは、「ケチケチ」(笑)

いくら「ケチケチ」したって「縮小均衡」=貧困に終わる、と政府与党がいっている。これは家計においても同じことだろう。「ケチケチ」は、問題の本質的解決にはならない、ということだ。…ところが、それを最大の“売り物”にしてるのが、大阪維新の会、ということになる。
(あまつさえ、それを“改革”と呼んでいる・笑)

さらに政府税調は、会社の中の「内部留保」だけが増えたといっている。
「大阪はケチケチ」の場合でも、その「ケチケチ」で浮いた金が行政サービスや減税として市民に帰って来るシステムがなければ、どこへ行ってしまうのだろう、とふと考える(笑)大阪の場合、維新の会だけが利益を集め太り続けた…という結果に終わらないことを祈るばかりだ。

TBS NEWS 与党の税制改正大綱案判明 賃上げめぐり経済界に苦言 https://youtu.be/xFXDRScJrpg

この年の瀬、もうひとつニュースの話題で気になったものとして:

皇位継承 有識者会議が最終報告書 皇族数確保に2つの案 2021年12月22日 22時13分

皇族数を確保しないと皇室が存続できない、という問題だが、これは日本の人口が減少を続け、日本が消滅する、という問題と相似的な現象とむしろ見るべきではないか(もちろん皇族数の減少と、国民数の減少はそれぞれ異なる原因によることはいうまでもないが)。

フランスでは、日本の出生率が発表になると、しばしば、
「日本人消滅の日が、また何年早まりました!」というようなニュースになる。
いまぱっと検索してみると、古いがこういう記事が最初に出てきた:

Le Japonais en voie de disparition — Libération

自分たちも少子化に苦しんだ近い過去があるので、馴染み深い話題でもあり、また他山の石として注意喚起したい、というところもあるだろう。

今日フランスでは少子化は食い止められているが、この例からも少子化問題というのは、決してどうしようもない自然現象でも、国民の意思の問題でもなく、“政策問題”、つまり、政治で解決できる問題だということがはっきりと判る。
(もちろんフランスの政策に問題がない、弊害がない、という意味ではない。ここでの論点はあくまでも、少子化をあたかも家族や女性の個人的な問題であるかのように扱ったり、自然現象であるかのように当の政治家が語ることがおかしい、ということにある)

ではなぜ少子化が進むか、といえば、端的にいえば、「人間はみんな考える」ということで、なにを考えるか、というと、それは現代日本の場合、戦争に対する不安でも、思想・哲学上の問題でもなく、ただ単に「子どもを育てるには金が要る」ということ、それにつきる。

つまり将来的に、経済的な(金銭的な)不安がある、と考える人は子どもを作らない、ということで、少子化問題を解決するには、この不安を取り除いてやることが最大の施策だろう。

現状でも、個人的にこの問題が解決できる(経済的不安のない)人は子どもを作る。しかし個人的に解決できない(経済的不安がある)人は、子どもを作らない。要するに「少子化問題」とは、後者(経済的不安あり)が前者(経済的不安なし)を数の上で上回っている、ということで、個人に任せていては、この問題は解決できない。というか、現在まで解決できなかった。そして貧富の差はさらに開き続けている。

現状、一個人に可能な対応策、防衛手段として考えられるのは…そう、「ケチケチ」くらいのものだろう。

それと同じことをいっている政党(=維新)に、ごくごく親しい、自分たちにもそのまま納得できる発想を見つけて“共感”するのは、むしろ自然な、ごくごく大衆的な感覚かもしれない。

しかし、「ケチケチ」なら、当然、子どもなんか、作らない(笑)

上記の「皇族数確保」のニュースと同時に目についたのが:

2割負担、来年10月から 75歳以上の医療費引き上げ―政府 2021年12月22日10時06分

この記事には、負担増となるのは高齢者全体の2割で、「約370万人。これによる受診控えも懸念される」と書いてある。

若い人はお金が心配で子どもを作らないところへ、今度は年寄りもお金が心配で病院に行かずにどんどん死ぬようになったら、いまやフランス人たちが“対岸の火事”として楽しく想像している«日本人消滅の日»は、ますます近づいてくるだろう(笑)

たしかにフランスの政策にも問題は多い。フランスは計画経済なので、毎年必ず光熱費も電気代も、パリであれば庶民の足のメトロ(地下鉄)の料金も上がる(水道代はパリの賃貸住宅ではなし)。しかしそれに合わせて、例えば住宅費(家賃)補助などの給付も(受給していれば)毎年上がる。

日本のように、医療費や年金の制度を守る、といって医療費を上げ、年金給付額は下げ、さらに実質賃金もめちゃくちゃ減っている、ということになったら。。
国民にできることは「ケチケチ」しかない。すなわち、子どもは作らない。病院は行かない。消費なんか、しない。

つまり、公共福祉やセーフネットに頼れない以上、国民は常識的な判断をしている、自衛している、「国民はケチケチ」ということでしかない。

(ただし、携帯電話は、いまどき難民でさえ持っている。それは贅沢品ではなく、文字通り現代のライフライン=命綱、何はなくともそれなしには生きていけないものだからだろう。日本人もほんとに欲しい物、例えば携帯まわりにはみんなお金をかける、というなら、それはこの世界3位の経済大国の国民が、国内で難民化してる、ということなのかもしれない…)

「国民はケチケチ」。しかしその「ケチケチ」は、政府与党もご指摘のとおり「縮小均衡」を生む。経済的に将来が不安な以上、いくら補助金を出しても、それは「内部留保」になって、消費には回らない。その「ケチケチ」が、ひいては少子化や、さらに今後は高齢者の「受診控え」を通じ、フランス人たちの楽しい空想の«日本人消滅の日»を早めている。

健康保険や年金を守る、というが、国民あっての健康保険であり、年金だろう。…そういえば、維新の人などコロナの際は、医療機関を守るため無症状の人を検査してはいけないともっともらしくいっていた(笑)この転倒したマインドセットは、皇族数の減少に対する問題意識と日本の国民それ自体の(フランス人いわく)«消滅の危機»のホモロジーにも、相同的に重なってくるのではないか。

つまり、国や機関や制度のために国民がいる、という順番で考えるか;
人がいて、ともに生きていくために社会や制度や国が存在する、という順番で考えるか。
ここでは前者を“転倒したマインドセット”と呼んでいるのだが。。

とはいえ、“個人の空想”という意味に限るなら、日本人が消滅したところで、それはそれで構わないような気もしないでもない。

一国民が、戦争のためでも疫病のためでもなく、ただ主体的に(つまり「ケチケチ」で!)消滅する、などということがもしほんとうに起こるなら、それは、まるで物語のようというか、お伽話のようというか、ほとんどポエティック(詩的)ではないか…とも思うのである。

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2021年、日本の衆院選、大阪選挙区で維新の会がほぼ議席を独占し、むむむむむ、と思っていたら、アメリカでもヴァージニア州知事選で民主党が敗北。…まぁね。距離をおいて客観的に眺めれば、どちらも「当然の結果」ではあるのだが。。

まずは、アメリカの例のほうが納得しやすいかもしれない。

アメリカの例

コロナからの復帰に際し、消費に供給が追いつかない。物流は動かないし、政府の補助金が切れても、再就職は進まない。これまでの働き方を見直す時間が生まれたこともあっただろうが、実際にはコロナ以前の状態に一気に戻ったわけじゃないこともあるだろう(子どもの学校は開いても、放課後の課外活動がまだ再開されてない、など)。

コロナからの立ち直りには凸凹がある。まだまだ様子見が必要と考えるのは、個人の生活、国内のレヴェルだけにとどまらない。各国の「回復の凸凹」は、OPECが原油の増産を決めないことの理由にも挙げられていたが、その結果、目に見えて物価が高くなっている。

かくして経済政策が巧く噛み合ってない上に、アフガン撤退の大失態もあり、バイデン政権は公約に反し、T政権の外交政策を(気候変動問題以外)おおむね踏襲(対中、対イランなど)、むしろさらに強化していく流れにあることも歴然としてきた。

とどめに僅差の与党となった民主党内での、延々と続く果てしない政争がある。もはや“世界一権力のある男”とも呼ばれた保守派議員一人の反対に始まり、バイデン公約の経済大再建政策はどんどん縮小、未だに予算は通っていない(11/05午前現在)。

一体何をやってるんだ、という話である。ここまで悪い要素が重なって、勝てるほうがどうかしてる。いくらT元統領を恥じ、insurrection(議会襲撃)問題をゆゆしきと捉える有権者は少なからぬ、とはいえ。

その点、共和党知事候補のさじ加減、T元統領支持者にもT元統領はさすがに破廉恥、と考える有権者にも支持させる戦略が図に当たった、ともいえる。
コロナのロックダウン終了に伴い一気に悪化した治安の問題もまた、
BLM(ブラック・ライヴズ・マター)や学校のcritical race theory教育の問題で、既得権益を脅かされているとの危機意識、被害者意識を募らせる白人層に、当然のように影響しただろう。

critical race theoryの問題は、遂にアメリカでも日本の“自虐史観”論争に相当する問題が出てきた、と考えれば、日本からは要・注目)

アメリカは、このままではT元統領再選、
T統領時代が再び戻ってくる可能性が高まっている。
バイデンは“America is back”といったが、その際、各国の抱いた「確かに米は戻ってきたかもしれない。でも、いつまで??」との懸念が現実化しつつある。

大阪の例

さて、問題は大阪である(笑)しかしこれも、結果論なら、当然、というべき結果でしかない。

まず、維新に入れているのは、もともと自民寄りの浮動層だろう。それが今回のパンデミック下の不安や不満で、一気にポピュリスト党に流れ込んだ。だいたい自民はこれまであまりにも「お願いします、一生懸命頑張ります」以外、一切のロジックがなかった。そこに、少しでも理屈をいえば、もしそれが中学生並みの理屈であっても、はっきりそっちが賢そうに見える。

中学生並み、といったって、それが“学級委員並み”の理屈なら、ますますいかにも賢そうだし、しかも万人に理解もされる。

難しい理屈は要らない、むしろ煙たがられる。ぱっと聞いてぱっと判る、判りやすい理屈が一番“賢そう”なのだ。

例えば「無駄を省く」。
もちろんそれが悪いわけではない。しかし問題は「何を省くか」で、
つまり、何を「無駄」と考えるか、だ。

大阪は、コロナの死者が、感染者に対する割合で、東京の3倍近い時期もあった。「大阪でやってることを全国で」やられたら、今頃日本のコロナ死者は2倍以上に膨らんだでいたかもしれない。

その大阪の死者の比率の高さについて、選挙戦で何ら反省も総括もしようとしない。ただ自分たちがいかにもいいことをしているかのような話ばかり。そんな現実を見ないで幻想に生きているような、批判精神0では、とても政治は任せられない。

問題は、判りやすい簡単な理屈の“その先”にあることを、多くの有権者が考えるかどうか、だろう。

平成の頃だと思うが、「八紘一宇はいい考えではないか」と国会で質問した人がいたという話を聞いた。
もちろん「八紘一宇」それ自体は“いい考え”でもあるのかもしれない。
しかしその一見“いい考え”、
「八紘一宇」とか「無駄を省く」という“いい考え”の旗印のもとに、実際は、何をしてきたか、何がなされてきたか、という事実をこそ考えなければいけないだろう。

この辺も、アメリカの例がむしろよく判る。T元統領は庶民のための大統領だといった。治安を守り、警察の味方の大統領だ、ともいった。その言やよし。しかし実際には大企業を優遇する税制をとり、議会襲撃のお膳立てをした。何人もの警官があの日怪我をし、死に、そして後日自殺した。

ことばだけなら、政治家は、みんな“いいこと”をいう。

戦争だってそうだ。歴史上「我々は悪の国なので、不当に他国に攻め込んで、罪もない人々をめちゃくちゃに殺してやります!」といって戦争をした政府などないだろう。そこには常に、“いい考え”、“いいことば”が必ずあったはずだ。

そこを考えない限り、
つまり、“いい考え”、“いいことば”のその先に、実際、何が行われるか。
その“いいことば”の実際を、有権者が考えなければ、ファシズムも、ポピュリズムも止まらない。
民主主義は、ただのポピュラー・コンテストになり、人気のあるもの=“正義”、となってしまう。
それで、物事がうまくいく理由がない。
そう考えるのが、正常な精神だろう。

もちろん、この大阪維新の躍進問題の根本には、大阪の地盤沈下、つまり経済的な貧しさの問題がまずある。

住民サービスや医療・福祉を削って税金を浮かせてみても、本質的な市民の貧しさの解消にはなりはしない。あえていうまでもないことだろう。

しかし、政治不信と、そして粘り強く考える、思考力の“体力”のなさから、人は安易な“解決”を求めてしまう…。

ちょうど北朝鮮の独裁政権のミサイル開発みたいなものだ。
ミサイル開発も、国の豊かさに寄与しないことはいうまでもない。さらに独裁政権の維持という目的から見ても、まったくその場しのぎの、場当たり的な効果しか生まないだろう。

それでも北朝鮮にミサイル開発をやめさせることは難しい。同様に、大阪維新の躍進を止めることも、難しい。何か解決策はないものか…そんな想像することすらも難しい。このポピュリズムが、大阪から全国に転移しないかが心配だ。

しかし、諦めてはいけない(それもまた“安易な解決”のひとつだろう)。

ジョン・レノンは「想像しろ」といったが、U2のBonoはもはや「想像」してる場合じゃない、行動しろ、といっていた。

だがサイードもいう通り、もし「想像(イマジン)」しなければ、変化は決して起こらない。

よりよい未来を想像し、不平等や欺瞞や権力の腐敗に異議を唱え続ける人がいなければ、その次の行動も生まれるはずはないのだから。

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*関連するポスト→ 「最後のセカンド・チャンス
バイデンがスピーチで「史上最も多くの票を集めた」と1度しかいわなかったのでびっくり、Tだったらこの話が絶対延々続く、それに馴れてたから、思わず待っちゃった、ほら、こんな風に…とA.クーパーが執拗に物真似(笑)

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結局専門家もみんな「もし五輪をするなら」という話ばかり。誰も「絶対やってはいけない!」と怒らない。まるで「もし戦争をするなら半年やそこらは暴れてみせましょう」といったという、第二次世界大戦の時の海軍の司令官とそっくり(笑)それでは五輪も、戦争も止まらない。

via Google image left | right

Wikipediaを見ると、太平洋戦争開戦の際、日本の海軍の山本五十六は、

「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」

と答えた、という。ふとこれを思い出したのが、今回の五輪に関し、専門家とされる人たち、医療関係者のTVなどでのコメントが、

非常に危険であり、問題があることを指摘した場合も、結局は

「もし五輪を開催するなら、その場合は…」

という話に落ち着く、ということだ。つまり、

「かくなりし上は…」ということだ。

一応問題点を指摘した以上、自分の責任は果たした。あとは自分に可能なより実効性のある努力をしよう、というある種の“現実主義”、というつもりかもしれない。
日本では、いまだにこの妥協を“大人の態度”と称して、なにか粋な態度でもあるかのように、美化する向きもあるかもしれない。

しかし、これは山本五十六がやったことと同じではないか。

令和に生きる、山本五十六の心。
尾身会長は、令和の山本五十六なのかもしれない。

しかし「かくなりし上は…」では、結局戦争も、五輪も止められない。

太平洋戦争の時も、当時の子どもには、素直に戦争を必要と考えたり、神の国であるだけに、必ず日本は勝利する、とプロパガンダをそのまま信じた“軍国少年”も多かったかもしれない。だが、大人はそうではない。例えば谷崎の「疎開日記」を読んでも、大人同士はこれは大変なことになった、まずいことになった、と話している様子が窺える。

話してはいるが、つまり、問題はあるとは判っていたが、それでも戦争は止められなかった。

今も東京五輪の開催について、反対する人は世論調査で5−3割程度はいるらしい。
もし仮に率直に意見を求められたら、太平洋戦争に、当時反対した大人も、それくらいは普通にいたかもしれない。

今日の後知恵では、太平洋戦争なんて、バカな戦争をして…と普通に思う。アメリカを相手に、システマティックな戦略もなしに、勝利などおぼつかないのは明らかだ。
しかし、そんなことは、当時の大人たちにだって、おおよそ判っていたのではないか。

オリンピックと戦争を一緒にするのはナンセンス、と思う人は多いだろう。
しかし、多くの人が反対しても、オリンピックさえ止められないのなら、“その反対のやり方”では、戦争なんか、もう、絶対に止められない。

パンデミック下の五輪ならまだしも、歴史的には侵略戦争と見なされそうな戦争が目前に迫った時、今度はそれを食い止める、有効な反対のやり方を、その場合には、急遽思いつくだろうか。(無理っぽくないですか?)
今回の五輪は、むしろそのテストケースだった、ともいえる。

あるいはcovidに関しては、このまま、阪神大震災よりは大きいが、東北大震災の被害者よりは少ない、という死者の数で無事(←どこが?)終息するのかもしれない。
無論そうなるよう願いたい。

尾身会長が令和の山本五十六にならないことをお祈りするが、それ以上に、むしろ現代の日本人が、今後前世紀の日本人と同じさらに重大な失敗を、座して見守ることにならないか。そのことのほうが心配だ。

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(Ainsi, la photographie du jardin d’hiver, si pâle soit-elle, est pour moi le trésor des rayons qui émanaient de ma mère enfant, de ses cheveux, de sa peau, de sa robe, de son regard, ce jour-là.)

(そんなふうに、そのサンルームの写真は、どれほど色褪せていようとも、私にとっては光の宝だ。それは子どもだった母から、その髪、その肌、そのドレス、そのまなざしから、その日放たれた光なのだ。)

。。バズらない、翻訳のお話です;)

Oeuvres complètes, tome 5 : Livres, textes, entretiens, 1977–1980 Roland Barthes

そうでなくてもバズらない、とは思いますが(笑)こういう定番的な本の話は、隠されていた秘密!というようなパラテクスト(その場合、要は裏話;)とか、

名作、と思われているがじつは違ーう、とか、
ちゃんとした出版社から出ているが、実は翻訳がもう、めちゃくちゃ、
というような、センセーショナリズムがないと、フツーにスルーされてしまう、

名作といわれているが、はい、たしかに名作です、
とか、
はい、ちゃんとまともな翻訳でしょう!
というような話では、もう、全然ひねりもなく、当たり前なので、現在のネットでは無視、ということになるでしょう。

で、残念ながら、そういう当たり前の話です(笑)

BarthesのLa chambre claire.
これは単なる写真論じゃなく、Barthesによる『失われた時を求めて』的な、
生涯独身で母親と暮らしたことで知られるBarthesが、その母を病に失い、自らも程なく事故死する前に書いた遺作であり、

Barthesの文学論、テクスト理論、ナラション理論寄りのものを読んでいると、それに比べてほんとに平易で、あの頭の体操を強いるような知的におもしろい文章を書くことを身上としたBarthesが、よくもここまで屈託のない、素直な読みやすい作品を書いたなー、と思う。

母の死とか、その後の本人の死…遺作…、などといったテクスト外の欄外知識、パラテクストが入っているので、ますますそう思うのでしょうが(笑)

いま必要があって読んでる論文(英文)に引用がたくさんあったので、今回自分の日本語で書く論文に引用するなら、日本語版があったよね。。と検索してみると、最初の方に「翻訳がひどい、誤訳の王者!!」的なページが上がってきて、びっくりしてしまいました(笑)

で、一応ざっと読んで「ああ、なるほど。。」と思ったのですが、はい、ここからがバズらない話で(笑)

まずタイトルのLa chambre claireですが、直訳すると、日本版通りのタイトルになります。作中にBarthesが書いてる通り、camera lucidaとエティモロジックなことば遊びになってるようですが、フランス人には日本語版通りの意味になるので、英訳などがcamera lucidaになっているからといって、ことば遊びのほうを邦訳のタイトルにする根拠はない、それは本文を読んでのお楽しみ、がよいでしょう。原著者の意図により近い。camera lucidaというものは、普通のフランス人は(普通の日本人が知らない程度に)知らないだろうから。chambre noireであれば、これは現像用の「暗室」という意味になりますが、原題では、ふつうに部屋の意味にしかならないでしょう。

訳の問題としてなら、chambreというのはフランス語では、ベッドのある部屋のことで、一概に寝室のことではなく、ホテルの部屋などもこれに入りますから、そのあたりが日本語では巧くいえない、という通常の仏文和訳の問題はあります。

あと、日本語話者が大抵してる勘違いで、imageということばがありますが、これは英語よりさらに、はっきり図像、画像、という意味です。こんな感じ、とかドビュッシーの作品のタイトルにも使われていますが、あくまでも「視覚的に絵がはっきり浮かぶもの」という感覚が中心にある、と考えてください。

これは僕は既に何回か書いたエピソードですが、日本語を勉強したフランス人が日本に行って面白かった思い出話、よく楽しそうに話す笑い話が、「写真はイメージです」。これ、日本語話者は、写真のとおりではなく「だいたいこんな感じ」です、という意味のつもりと思うと思いますが、フランス人から見ると、「写真は画像です」というまったくトートロジー的な、「そんなの見ればわかるよ!(笑)」という謎の注意書きになります。

こんな雰囲気、こんな感じ、という意味では、英語なら結構使える場合もあるけど、フランス語で話す時は気をつけておいたほうが話は通じやすいでしょう、うーん、絵が浮かばないんだけど、と思われますから。。(笑)

それからこの翻訳者ですけども、僕は実は何度か図書館で借りただけですが、ジュネットを読んで、感心したことがあります(。。そういえば、原書も図書館で何度も借りただけでしたが;)

確かにフランス語で読んだほうが判りやすいところはありましたが、それはむしろ当たり前。逆にフランス語で読んでもなかなか意味が判らない、ジュネットくらいでも、大学生でも文学をやってないフランス人だと、うまく理解できない部分がある。それを翻訳で読んで、そう気にならずに読ませてしまうのは、すごい、といえます。

一箇所contresensを見つけて今回増刷時に訂正させた、ともありましたが、フランスの思想書だと、日本語訳で読んでるだけでもばんばん誤訳に気がつくものもある。原著を知っていれば、訳し落としに気づく場合もある。確かに誤訳はないほうがいいですが、初版の段階で完全に誤訳のないほうがやはり珍しく、それは気づいた人が指摘して、増刷されれば修正される、ということで、昔から翻訳文化は積み上げられてきています。

それより驚いたのは、訳者が著者の意図を理解しきれていないから自分に読みにくい訳になっているのではないか、と考えていることで、ふつう著者を別にして、翻訳者以上にその作品を理解できる人はいません。読者の方が、傍目八目でむしろ誤訳に気づく場合はあるでしょうが…。

では、フランスの思想書の邦訳で、判りやすかったものを3、4冊あげてほしいような気がします。そうでないと、判りにくいという基準が判らない。そもそもの基準がないと、判りやすいとも判りにくいともいえないのでは?(笑)

ともかくBarthesでは、これはほんとに読みやすい、素直な本です。そして、非常に胸を打たれる本でもある。思想書や理論書で胸を打たれる本もあるけど、そういうことではなくて、ふつうにエッセイとして、読み物として胸を打たれる、ということです。

特に冒頭に掲げた部分、記憶違いがあるかもしれませんが、だいたいこういう文がある(笑)やはりここは白眉で、第Ⅰ部は普通の写真論なんだけど、第Ⅱ部に入って、ひとり残されたアパルトマンで、夜、母の写真の整理を始めるところから、急に私小説的になり、遂に、ここに至ったあたりで感極まる、という感じがありました。

それはそう、と思ったのは、英訳と仏訳の比較で、僕もフランス語の勉強を始めて、最初にフランス語で本を読もうと思った時、英訳と対照すればいいや、と思ってfnacに見に行ったのですが、その場ですぐに諦めました(笑)フランス語の理解、真面目な勉強には、全然役に立たないからです。

それは、翻訳の伝統の問題で、日本の翻訳は有史以来の漢文逐語訳の伝統から翻訳を考えるが、欧米語間ではむしろ、原文を読み、じゃあこれを(たとえば)英語で全部いうとしたらどうなるか?という作業を翻訳interpretationと考えるほうが近いでしょう。

その意味では、フランスのほうが、日本に近く、原文の形を尊重しようという努力がわりとある、特に近年は…といえる、と思う。これはもう、「翻訳」に対する考え方、翻訳文化、伝統の問題です。

というわけで、BarthesのLa chambre obscure
日本版で読もうと思ったら、こんな訳まるで問題外!!みたいなページが最初に出てきたので、まぁ、確かに、フランス語で読むに越したことはないですが、日本語版だってぜんぜん大丈夫なはず。恐れることなく、ぜひ読んでみて下さい!ということで、今回のこのバズらないポスト。書いてみました;)

Henri Salvador - Jardin d’Hiver

(…アンリ・サルヴァドールを、Jardin d’hiverつながりで;)

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バイデンがスピーチで「史上最も多くの票を集めた」と1度しかいわなかったのでびっくり、Tだったらこの話が絶対延々続く、それに馴れてたから、思わず待っちゃった、ほら、こんな風に…とA.クーパーが執拗に物真似(笑)

検索したら、すかさずちゃんとtweetしてくれている人がいたので、クリップしておきます!

いわく、信じられるか、誰もこんなの見たことがない、すごいことだぞ、みんなが話してる、史上最大の得票だぞ、世界のリーダが電話してきて、俺にいったぞ、こんなの見たことない、史上最大の得票だぞ…

「もう、止めてよ」「今にそれが懐かしくなるよ」とか突っ込まれてるw

今回の選挙、A. Cooper絡みだと、NYTのTom Friedmanの選挙直前の記事も、諸外国、外国人からの視点を取り入れていて、非アメリカ人の共感を誘うもの;)

…いわく、どんなにアメリカが失敗しても、問題があっても、世界の人々は、何度も何度も、アメリカにチャンスを与えてきた。もう一度だけ、もう一度だけ…とアメリカを信じようとしてきた。

それは、ロシアや中国とは違って、アメリカが単に自国の利益を考えているだけではない、世界の人々のことも考えているのではないか、と思えたからだ。

もしTが再選されたら、結局アメリカも、ロシアや中国と同じ、欲得ずくの国になってしまう。それは、Tがそういう人だ、ということではなく、アメリカがそういう国だ、ということになってしまう。

もし世界の人々が、あの虹の彼方には、自由が、正義が、真実が、尊重される国があるのかもしれない…そう夢見ることを止めたなら、その時世界は暗くなる。

元の記事はこちら:

Opinion | Trump Has Made the Whole World Darker — The New York Times
https://www.nytimes.com/2020/10/30/opinion/trump-america-world.html

残念ながら、Friedmanの願い虚しくテキサスでは勝てず、上院も共和党多数を維持、という投票結果。

前回は「TもHillaryも嫌い」という人が多く投票率が下がったことがあの結果か…と見ていましたが、ここまで投票率が上がっても(そう、これなら「国民の信託を受けた」といえるわけです;)結果はかなりの接戦で、前回もちゃんとアメリカ国民の民意を反映してたんだ、ということが判りました。

最高裁を含む司法の共和党化も進んでおり、銃規制、プロ・チョイス、国民皆保険、BLMを始めとするマイノリティ差別の解消など、民主党支持者の願う政策の実現は、バイデン政権下でも難しいでしょう。

どうもラティーノ系の人たちにバイデンはコネクトできなかった、という説もあり、このあたりが滅びゆく運命のデモグラフィ、現在の共和党支持層に変わり、新支持層となる可能性も出てきた。

しかしともかく今夜のところは、もう一度、民主主義のビーコンとして、“古き良きアメリカ”に、
虹の彼方の、いつか辿り着ける真実の国、その夢を、もう一度— — そう、“最後のセカンド・チャンス”として …
辛くも託すことができそうです;)

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*関連するポスト→ 「Shover, grabber and cheater.
Kavanaugh米最高裁判事候補の報道に、高校時代といえば、自分も女のコを押し倒してしまったことがある…と冷や汗をかいた男性は多いのでは? でもね、ここには細くともはっきりとした違いがある、と思うのです…。There could be a fine line here…;)

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ナラトロジーで分析すると、わりと単純化できる作品。 …漠然と混乱を楽しむより、もっと強いクスリあります(笑) この映画。なんだかよく判らんなーと思いながら、いや、しかし、この映画が単純につまらんとか、よくできていない、といってしまうと、知的でないっぽい…という危惧から(笑)なんとか理屈をこねて褒めているのではないか、と思われるレヴューも散見するのですが。。 たしかによく判らない、といえば判らないですが(笑)よほどの天才でない限り、ものを作る人には、作る人なりのロジック、というものがある。それが判っているので、同じものを作る人は、そこにロジックを探そうとする。製作上のある種のéchafaudage 足場的なもの、といってもいい。 その意味でこの映画、ナラトロジーを使って説明すると、わりと上手く説明できるような気がしました(笑) ナラトロジーは、もはや50年前の知見であり、今日小説の分析に使える部分はかなり限定的になってはいるのですが、そのナラトロジーが物語製作の方へ、逆に大きな影響を、既に与えてしまっていることも看過できない。特にフランスの国語教育に与えてしまった影響は甚大で(笑)今日ナラトロジーの様々な不合理が指摘されてはいますけれども、既に現代のフランス人の発想には、その不合理も含めて«第二の自然»化しているかもしれない(笑)

[映画レヴュー]フランソワ・オゾン監督『2重螺旋の恋人(字幕版)』(2017)
[映画レヴュー]フランソワ・オゾン監督『2重螺旋の恋人(字幕版)』(2017)
Yûichi Hiranaka

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