NewJeans ハニの『青い珊瑚礁』、松田聖子の『青い珊瑚礁』。「シティポップ」の遠い夢。

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さる6月26、27日のニュージーンズ、東京ドーム公演でのハニ、『青い珊瑚礁』を聴いて、崩れ落ちてしまった日本のオールド・ファンは多かったのではないだろうか。

『青い珊瑚礁』は松田聖子、最初のNo.1ヒットで、ここから何年もにわたるシングル1位連続記録が始まった記念碑的な1曲だが、いわゆる歌謡曲的な性格がまだ強い。

…当時は「ポスト山口百恵」と宣伝されていた松田聖子。とはいえ、デビュー・シングル『裸足の季節』そして3枚目の『風は秋色』と続いたあのヴォーカル・スタイル、あれは明らかにキャンディーズの流れをくんでいる(白玉の最後をしゃくる)。キャンディーズが非常にポップス色の強いガール・グループだったことは、さらにオールド・ファンにはよく知られるところだろう。このあたりについては音楽評論家の諸兄が既に徹底的に論じ尽くしているだろうから(多分)多言を弄するまでもないのだろうが…。

ハニが『青い珊瑚礁』ではなく、同じ松田聖子でも、もし『赤いスィートピー』を歌っていたら。。もう腰砕けてそのまま立てなくなってしまったオールド・ファンもいたのではないか、と思うので(笑)そういう意味でも、これは「頃合いをわきまえた」素晴らしいチョイスだったかもしれない。あるいは、松田聖子ポップスの完成形とも思える『秘密の花園』だったらどうだったか。。などと、夢はふくらむ(笑)

『風は秋色』の後、チューリップで知られた財津和夫作曲のシングル3枚をブリッジにして、大滝詠一作曲の『風立ちぬ』から、アイドル・タレントとしてのスタイルはともかく、サウンド的には、松田聖子ははっきりと変わっていった。

大滝詠一はもちろん80年代日本のポップスを代表する、アルバム『A Long Vacation』で知られるが、これから後の松田聖子は、バックはティン・パン・アレーかイェロー・マジック・オーケストラかと思わせる、つまり今日シティポップと呼ばれる音楽の原型を作ったミュージシャンたちのポップス・サイドの実験場とでもいいたいような様相を呈し、ヒットを連発していくことになる。松田聖子はアイドル歌手だけど、松田聖子プロジェクトは、今日から回顧的に見ると、まさに「シティポップ」の「お茶の間」(というのももう死語かもだが)版、diffusionライン(普及版?)だったと考えられる。

サウンドだけでなく、歌詞の面から見ても、歌謡曲的な『青い珊瑚礁』ではlittle girlなどが挟まれる程度だが、前述の『赤いスィートピー』に至っては、まさにサビの出だしにどーんとI will follow youと歌われ、『秘密の花園』ではMoonlight magicがサビの入りだった。

4月に上梓した80年代日本の都会短篇小説を集めたアンソロジー、『シティポップ短篇集』のライナーノーツ(解説)でも指摘したが、現在「シティポップ」と呼ばれるようになった音楽では、フックでいきなり横文字、カタカナ言葉が出てくる、というものが多い。同解説では、そのプロトタイプというべきシュガー・ベイブ『Down Town』や、荒井由実『中央フリーウェイ』を特に取り上げたが、一体それはなぜなのだろう。
英語のほうが、ポップスのメロディに乗りやすい、というよくあるパターン化した説明は、松田聖子のメロディ・ラインを考えると、あまり説得的ではない。『青い珊瑚礁』のサビはいうまでもなく「あー、私の恋は」と高らかに日本語で歌い上げられていて、何の問題も来さない(笑)

…「ポップスなんて楽しめばいいんだよ、小難しいへ理屈を考えるなんて野暮の骨頂」と思う人もいるかもしれないが、そういう人は、その娯楽、エンタメ、子どものおもちゃに過ぎないポップスを、実は大人が本気で作っていた、ということを看過している。80年代の、できる作詞家は、まさに心血を注いで、血を吐く思いで、あれらの詞を書いていた、ということがぜんぜん判っていない人たちだ。

そりゃあ、横文字を使ったほうが気取ってて格好いいと思うのが当時のセンスだったからだろう、まさに80年代、軽佻浮薄なバブル時代の産物だよ、と思って済ませる人もいるかもしれないが、しかしそう考えることには、なんの建設的な意味もない。

『シティポップ短篇集』の解説では、そこを「理想化」というコンセプトで説明してみた。現実をそのまま描こうとするのではなく(そもそも、そんなことは不可能である、というのが80年代の鍵となる認識だった)そこに少し理想化を加えて、フィクション化、架空の世界化する。それがこの時代の都会的なポップス——シティポップ、そして同時代の文学の一部にも共通する、ひとつの美学(あるいは戦略)だったという見方を提示しておいた。

現実、当たり前の日常をふわりと離れる。するりとかわすためのキック・スタート。それが英語詞の使用、混入だった、といえばいいだろうか。

『シティポップ短篇集』には、“シティポップ時代の日本の短篇小説集”と、副題を英語で添えておいたが、今日「シティポップ」と呼ばれるようになった都会的な音楽が80年代にたくさん生まれたように、当時、文学にもあの時代の日本ならではの都会的な作品が実はたくさん生まれていた。それを集成して、今回アンソロジーを作ったわけだが、しかし、40年経っても、いかにも80年代らしい軽薄で中身のない小説だとか、読んでいて恥ずかしくなるなどといった、当時の70年代以前世代的なセンスそのままの、類型的な揶揄の声が聞こえてきたのには、ああ、やはりなぁ。。という気がした。判りました、まだまだ早過ぎましたね、では20年後にまたお会いしましょう、というほかないが(笑)

…大体80年代は軽薄短小で空虚だったいう人は、じゃあ90年代以降は重厚長大で充実していたとでも思っているのだろうか。そうでなければ、80年代を貶める、なんの根拠もないではないか(笑)

少なくとも、80年代の日本の音楽は「シティポップ」として、経済発展を遂げた近隣アジア諸国を発信源として、世界で愛されている。80年代日本のポジティヴで都会的な感覚が、今まさに元気で発展中の、彼らのVIBEにしっくりハマったのだろうと思う。

そしてそれは、実はサウンドだけではない。例えばフィリピンには、80年代日本のシティポップの歌詞の世界まで視野に入れ、自分たちなりのポップスを作り始めている若い世代が出てきている。
(…たとえば、この記事、- Localizing City Pop - の部分を参照)

英語が読める人は、このオーストラリアのミュージシャンのfacebookポストを読んみてほしい。

この人は、今回の『シティポップ短篇集』までも日本語で読んで、こうレヴューしている。それは、どこかで聞いたような紋切り型をただ繰り返す類型的な読書からはるかに遠く、新鮮な目で、正確に、ここに収録したシティポップ時代の日本の短篇文学の特徴を捉えているように思う。

その内容を簡単にまとめ、こちらからもfacebookにポストしたが、ざっくり日本語で要約すると、だいたい:

“これは切なさの文学、切なさを捉えた文学であり、そこがシティポップと共通している。それは普遍的な感覚であり、文学からその世界を探求したいなら、この本は、その文学と音楽のインターセクション(重なり合い)を考えさせてくれる。。

というようなことになる。

するとこれにまた返答があって、英語で書いたレヴューを日本語での要約では「切ない」という一言にまとめているが、この「切ない」というひと言が、英語にはなかなか巧く訳せない。しかし、その訳せない感覚が、普遍的なものとして、シティポップでは伝わってくる、という。
こんなレヴェルの読みを普通にしている。

…逆にいえば、最初のレヴューの英語原文では、日本語では「切ない」のひと言にまとめられる部分が、客観的に、分析的に記述されている、ということになる。
レヴュー原文は、だから、日本語で「切ない」と要約できる感覚を、では英語で一体どう説明すればいいのか、その好例ともなっている。

編者である僕自身の考え方も、さらにソーシャルメディアに書いたので、書き直す代わりにこれはペーストしておくと:

まだ浸透していませんがw。
シティポップやポパイ・ananなどの提案型のライフスタイル誌、そして今回この短篇集に収録した作品は、現実を描こうとするのではなく、理想化された世界を描こうとした、という新しい認識を提示できたことは、今回の成果だったと思います。
80年代=「軽薄短小」etc.の類型的な、70年代的な80年代観を相対化できた、と思います;)
理想化、つまり、抽象化された世界の中で、あるいはその世界の中でしか捉えられない、人の真実を捉えようと試みた…。
ルソー風にいうならw それは現実には存在しない世界かもしれないが、想像してみる価値のある世界。あの80年代の、物質的に豊かな時代に可能だった、想像力の中に生まれた世界といえると思います;)。

…だいたい文学が、直接的に現実を描けるなどと思うのは、あまりにも前時代的、いくらなんでもポストモダニズムを軽視し過ぎ(か、何も知らない・笑)。
哲学や認識論が真実を直接的に捉えられないと考えている現代に、小説家が何も考えずそれを達成できるはずもない(笑)そこには、それなりのストラテジーってもんが必要だろうと思うんですよね。。;)

(…facebookにもポストしたけど、こちらはthreads版)

NewJeansについては、この際、ついでに以下のインタヴューもぜひ読んでみてほしいが、こちらではさらに80年代との関係を、より突っ込んで考えている:

ハニの『青い珊瑚礁』から松田聖子、「シティポップ」、そして当時の日本の都会小説、という今回のポストだったが、最後にもう一度、NewJeansに立ち戻ると、
東京ドーム公演に合わせた日本デビュー用のシングル『Supernatural』や『Right Now』では、母語である韓国語や英語だけでなく、日本語も自由に混じって、3カ国語を行き来する、ヴィヴィッドな歌詞が本当に楽しい。聴いてる誰もがこの3カ国語を自由に行き来できるわけではないだろうが、聴いてるだけでも楽しくなるんじゃないだろうか。

ここに、ひとつのフィリアション、サビになったらするりと英語になる、シティポップや松田聖子、80年代日本のポップスの、遠い遠い子孫、はるかに楽しく、もっと自由で、さらにポジティヴな、果たせなかった夢のひとつの達成を見ることができる。そんな気がする。
そして80年代日本の都会的な短篇小説も、その同じセンスを共有している。

現実をふわりと離れ、音楽の中に、文学の中に。楽しさを、ひとつの「真実」を。くっきりと描き出そうとするのだ。
現実から離脱することで生まれる隔たりは、そこでは世界を捉え直すための、大切な距離となっている。

NewJeans How Sweet
シティポップ短篇集』(田端書店, 2024)

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Yûichi Hiranaka

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