ニュージーンズと“ネイティヴ感覚”

ニュージーンズの歌詞に付けられていた日本語訳から、それがほんとに“自然”な翻訳なのか、という根本を問う。…AI翻訳や、生成AIとの付き合い方にまでこれは敷衍されるべき問題。

ニュージーンズの2nd EP、ラストを飾る「ASAP」の出だしは:

Hi, it’s me again, I’m back!

とはじまる(そう聞こえる)。

インスタグラムのリールで、これに日本語訳を付けている人がいて、

(僕が日本語話者だからだろうが、この日本語訳ネタはやたら流れてくるが、後述するタイプの子女の自己主張なのだろう。。)

その訳が:

ごめんね、また私。

となっていた。

おそらくこういうのを、現代では上手い訳、こなれた訳、“自然な”訳、そして、“ネイティヴ感覚”の訳、など評して、高く評価するのが大方だろう。

しかし僕には、この訳は非常に違和感を感じる、激しく問題のある訳だ、という気がする。

確かに日本語では、こういう時、ついつい「ごめんね」といってしまうのが自然だろう。

つまり、日本人の、社会人であれば「度々恐れ入ります」などというのは、ごくごく“自然”な、常套的な挨拶だろう。

だから“It’s me again”というのをAI翻訳が、「度々恐れ入ります」と優先的に選択するなら、それはビジネスユースとしてはすばらしいシステム、ということもできるかもしれない。
非日本語話者が日本語話者とビジネスをする場合、商談がすみやかにまとまる、という効率(パフォーマンス)で考えれば、この自動翻訳を使うことは賢明だろう。

しかしこの訳が“自然”な訳、といえるだろうか。
もちろん、日本語としてはこなれていて、違和感のない訳だということはできる。
しかし、それがほんとに“自然”だろうか。

つまり、“It’s me again”というときに、反射的に「ごめんね」とか「恐縮です」などと感じるのは、日本人のメンテリティで、アメリカ人はそうは考えない。フランス人だってそんなことは考えない。

(再度電話してること以外に、なにかすまなく思うことがある場合はもちろん別だが。また、これは日本語の問題だが、「恐縮」というのと「決まり悪い・居心地悪い」というのはまた別の感覚であり、どっちも似たようなもんじゃん、と思うのは、日本語の感覚がザル、ということだろう;)

そこにないはずの「ごめんね」を付け加えて“自然”な日本語にすることは、ビジネスユースとしては効率的だとしても、決して“自然”と呼べはしない。

こういう“日本語として自然”な訳を、“ネイティヴ感覚”の訳、などといって称揚する向きもあるから、事態はさらに悪化する。

もしこれが、“ネイティヴ感覚”の訳だとすれば、それはむしろ、
“日本語ネイティヴ”の自然な感覚がよく判っている、ということに過ぎない。

つまり、この種の日本語訳は、外国語ネイティヴの翻訳、というよりも、より正確には、むしろ“日本の空気を必死に読んでいる自称バイリンガルの帰国子女の感覚”に過ぎない。

(余談だが、フランス語ではこういう人のことをbilingueとは呼ばない。フランス語でバイリンガル、というのは、厳密には、«読み書き話す»の全レヴェルが二カ国語で完全に均一である場合にかぎられる。もちろん、教育のある人のフランス語においては、ということだが…。以上、余談おわり)

ほんとうの英米ネイティヴの感覚とは、こういう時に「ごめんね」とか「恐縮です」などと感じない感覚のことをいうはずだ。
そしてそちらの感覚を別の言語で再現(表象)することこそ、本当のネイティヴ感覚、というべきではないか。
外国語ネイティヴにはない感覚を付け足して、自然な日本語にすることが、どうしてネイティヴ感覚といえるだろう。それは、英語の発話を英語としては不自然な感覚で日本語化しているだけなのに。

違う言語で話す、ということは、それだけで、同じ物事に対する考え方が変わる、世界の見え方が変わってくる、ということだ。つまり、ことばが変われば、全てが変わる、世界が変わる、ということだ。

もちろん、たとえば商社マンで、商談を成立させるということにしか結局は関心のない人もいるだろう。そういう人の語学力(言語能力)はしかし、そのレヴェル止まりで終わるはずだ。

そうでなければ、外国語で話す、そして考えてみることの醍醐味は、母語で話す時には見えなかったものが見えてくる、感じられなかったものが感じられる、判らなかったことが判る、ということにこそある。

日本語で考えていた時は、普通、と思っていたことが、おかしく思える。なんで「度々」だったら「恐縮」なんだ?というのはその一例だが、そういう“自動”的な、“自然”な発想、感覚が、外国語のフィルターを通してみると怪しく見えてくる。

つまり、世界は決して日本語で考える、日本語で見えてくるもので全て、ではない。もっと多様な可能性がある。ということが判ることこそ、外国語を学ぶこと、外国語で話すこと、そして、外国語で歌を聴き、文学を読むことのエッセンスではないか。

その違いを消し去って“自然”な日本語にしてしまうことは、結局世界には日本語から見る見方しかない、
いま見えているものが全てなんだ、
この“唯一”の世界しかお前にはないんだよ、
だから、ただひたすらその“現実”を生きろ!というようなものである。

そして問題は、それが間違っている、ということだ。

英語で話し、考える。フランス語で話し、考えると、世界はまったく違って見えてくる。日本語から見た“自然”は、英語やフランス語で見れば、決して自然なんかではない。

つまり、そういう“自然”な日本語訳は、その多様な可能性を、もっといえば、さまざまにほんとはある、生きる希望を消してしまう。そこがいちばん問題なのだ。

子どもの頃、初めてアメリカ、カリフォルニアに行き、そこで知ったアメリカ人、そして英語に僕が恋をして、いまでも英語が、そして外国語が好きなのは、そのカリフォルニア、アメリカが…というよりも、英語で話し考えることが味わわせてくれた、あの自由さのせいなのだ、と思う。

日本で日本語だけで生きていた時は、これが当たり前で、これしかない、これが当然だ…と思っていたことが、みんな単なるローカル・ルール、ほんとはそこにさえいなければ、どうでもいいことなんだ、ということが判ったこと、そういう可能性を知ったことで、僕は本当にラクになった。
だからいまでも、外国語で読み、考え、話し、書き、外国語を学び続けている。それは、それがいちばん簡単な、自由への入り口だからだ。

外国語で話し読むことは、いわば違和感の連続だ。その違和感を少し乗り越えていくと、今度は母語に対して逆に違和感を感じるようになる…。その行ったり来たりの中で、さまざまな可能性、自由を感じることができるようになる。

“自然”な日本語に訳してしまうことは、この違和感を消し去って、つまり、いわば「世界には日本語しかない」「どんな言語で考えたって、感じたって、結局世界は同じなんだ」という嘘を教え込んでしまうことになる。

とはいえそのような訳が“ネイティヴ感覚”あふれる訳、というなんだか口あたりのいい欺瞞的な呼称によって、いかにもいいことであるかのように持ち上げられているのが、いまの日本の趨勢だろう。

だから僕は、もうバカバカしくって、翻訳なんかやりたくなくなる。

…あ、でも、頼んでくれたらやりますよ(笑)

英語やフランス語を読んでるときと同じくらい、違和感を感じるような、世界の見方が変わるような、そんな、“不自然”な、ゴロゴロした訳を読ませてよ!

もしそう頼んでくれる人がいたならば(笑)

…しかし、冒頭にクリップした「ASAP」のオフィシャル・ヴィデオ。
これが「オリーブ」じゃなかったら、何が「オリーブ」?
っていいたいくらい、めちゃくちゃ「オリーブ」じゃない??;)

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