「企業が利潤を追求するのは当たり前」という論理を5分で論破する方法

「企業が利潤を追求するのは当たり前」という理屈は、企業の行動を正当化する論拠としては、無効です。しかしそれを素早く論じることは意外と難しい。そこで、その無効性を指摘するための思考法の一例をメモしておきます。「間違っていることを、間違っているというための技術」です。

photo: Florian Glawogger

企業が、自らのふるまいを正当化する論法のひとつに:

「企業は利潤を追求するための組織であり、利潤を追求することは当然である」

というロジックがあります。しかしこれは、この論法が持ち出される多くの場合において、実は無効なロジックです。

「企業なんだから、利潤を追求するのは当たり前」というロジックは、「そもそも」論、いわば基本的な原理を述べるものです。

例えば、サッカーであれば「サッカーとはゴールポストにボールを蹴り込んで得点を競うゲームなので、ボールをゴールに蹴り込もうとするのは当然である」というのと同じです。

さらに一般化すると(広くいうと)「競技スポーツのそもそもの目的は勝つことなので、勝とうとするのは当たり前である」というようなものです。

しかし、企業側が「企業が利潤を追求するのは当たり前」という議論を持ち出すのは、企業のその利潤の追求、つまり「金儲け」がもたらす「害悪」が問題になっている場合でしょう。

「そもそも論」としてはもちろんそのとおりなのですが、この「企業が利潤を追求するのは当たり前」というロジックは、企業活動に対する批判を受けた企業が、その自己正当化を行うための議論としては、基本的に無効です。

サッカーが「ゴールにボールを蹴り込むのは当たり前」という話と同じ、といいましたが、しかしボールを蹴ること自体が「害悪」を生むとはやや考えにくい気もするので(*1)、もうひとつ同じ種類の議論(そもそも論)で、「害悪」と結びつけやすい例を考えてみましょう:

「キツネがニワトリを食べるのは当たり前である」

肉食のキツネが、野ウサギや野ネズミを食べるように、家畜のニワトリだって食べるのは、キツネとしては当然です。キツネは「キツネのすること」をしているだけで、キツネにとっては、そもそも何らおかしいことではありません。

しかし「キツネがニワトリを食べる」ことが問題になっている時には、このキツネにとって「当たり前のふるまい」が問題になっているわけです。

問題は、キツネがニワトリを食べることが「当然か当然でないか」ではなく、「ニワトリを食べられては困る」ということです。キツネとしては当然のことをしているだけでも、ニワトリを食べるなら、駆除しよう、という話にもなります。

キツネの駆除だと、今度は生態系の破壊の問題が出てくるので、再び競技スポーツの例に戻ると、ゴルフは、ゴルフ場を必要とします。それはそもそも当然ですが、そのゴルフ場の一見美しい芝生のコースが環境に「害悪」をもたらしているとすれば、そういうゴルフ場があっては困る、さらには、ゴルフなんていうスポーツはもう止めたほうがいいんじゃないか、という話にもなります。

つまり、企業が企業活動=金儲けをするのは当然でも、それから生まれる「害悪」が問題になっている時は、「企業というのはそういうものです」といったところで、その企業活動を正当化する論拠にはならない。単なる一般論、「そもそも論」をいっているだけだからです。
その企業活動が「害悪」をもたらすと考えられる場合には、そんな「害悪」を生むことがそもそも当然な「企業」なら、もうその企業自体、「そもそも」存在しないほうがいいんじゃないか…という話にもなるでしょう。

さて、そこで企業側が、「いや、そんなことはない、企業は役にも立っている。経済活動を行って、社会に貢献し、社員の生活を保証し、取引相手の人々の役にも立っている」といい出したら。

実は、ここで議論はまったく別の次元に移っているわけです。

つまり「企業とは金儲けをするものだから当然金儲けをする」という「そもそも論」ではなく、「企業は社会の役に立つものだから、存在する価値がある」という、べつの議論に移っているわけです。

結局、ここにはふたつの議論(論法)しかありません。

① 企業が金儲けをするのは当然だ。

この①の立場を取れば、金儲けが害悪=「キツネ化」した場合、当然その企業はないほうがいい、という話になります。

しかし、

② 企業に存在意義があるのは、社会の役に立つからだ(だからそもそも企業が当然行う企業としての活動=金儲けも正当化される)

この②の立場を取るなら、それは①とはまったく異なるロジックです。

社員の役に立ち、取引先の人の役に立つ、ということを存在意義として主張するなら、社員と取引先の次に、その外の社会を考えることになります。社員と取引先の人たちだけが幸せで、それ以外の人たちを不幸にする企業活動は、やはり「役に立つから存在意義がある」という立場とは、本質的に矛盾します。
一部の人の役に立つが、より多くの人には「害悪」になるなら、それはやっぱり、結局は「役に立たない」ということになってしまう。それがロジックです。
したがって、企業外のより多くの人に「害悪」をもたらしていい、ということは本質的にできない(自己否定になりますから)。やはり少しずつでも改善しなくてはならない、ということになります。

つまり「キツネ化」を指摘された場合は、「いいキツネ」にならなくてはならない。
キツネが、キツネとして当然のことをするのは当然だ、と主張するには、少なくとも「害悪」を生まない、ということが現代の社会ではまず前提になります。

結論:「キツネ」が「キツネのこと」をするのは当然だ、というだけでは、「キツネのすること(例:ニワトリを食べる)」は許容されません;
同様に、「企業」が「利潤を追求する」のは当然だ、というだけでは、「企業」のふるまいを正当化することはできないのです。

日本語では、企業のことは「会社」といいますが、英語やフランス語ではソサイエティ。それは「社会」のことも意味します。

「会社」というのは「社会」の中にある、小さな社会であって、普段使う意味は違っても、このふたつはそもそも同じことばなのだということを忘れないように、という先人の知恵がここにはあるのではないでしょうか。

より大きな「社会」なくして「会社」なし。

かつてソサイエティということばを翻訳した昔の日本人は、そこにふたつの意味があると理解しつつも、結局、両者は同じ根を持つものなのだ、と見抜いていたのだと思うのです(*2)。

より大きな「社会」に「害悪」をもたらす「会社」は、当然「反社会」的な組織である、とはっきりいってもよいでしょう。

photo: Robert Bye

*1 ただし、「競技スポーツなので、勝とうとするのは当然」というロジックが、実は「反社会的」な人間を生み出すかもしれない、という研究が、こちらの記事で紹介されています:

「スポーツは人格形成に必ず役立つ」はウソである…「アスリートほどルールを軽視する」という衝撃データ

なお、タイトルの「必ず役に立つ」の「必ず」は、編集者が入れたような気がします。「必ず」が入っていれば「必ず☓」というのは、運転免許の筆記試験を受けたことのある人なら、みんな気づいていることではないでしょうか(笑)この「必ず」は、ディスクレイマー、揚げ足を取られないための用心でしょう。(President Online, 2023 Jan 7 閲覧)

*2 柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書 1982)も参照。

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Yûichi Hiranaka

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